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過去記事置き場

『フリーエージェント社会の到来―「雇われない生き方」は何を変えるか』

巷で話題のノマド的な働き方に強い影響を与えていると思われる本です。

フリーエージェント社会の到来―「雇われない生き方」は何を変えるか
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読んだ実感としては、
  • これはアメリカの話であること
  • 誰もが夢見れる話ではないこと
  • 終わりの方の話が何言ってんだかよくわからないということ

である。


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ブログを書くことは排便に似ている

排便されたウンコを見て「生産物」と思う人は居ないだろう。
ブログもそれと同じである。

ブログを書いたくらいでやりきったと思うのは大きな間違いだし、仮にそう思ってしまうのであればかなりヤバイ。
ブログに価値がない訳ではないが、本質的に、生産物と呼べるほどの代物になりづらい。
よほどの専門家か、優れた書き手でも無い限り、ウンコの川流しとたいして変わらない。

ブログを書く時間よりも優先するべきことは沢山ある。
仮に、自分にとって最も生産的な行為がブログでなければ、ばっさり切ってしまってもいいのだ。
人生は短い。
排便は必要だが、それは生理現象の範囲に収めるべきだ。

※それにしても、我ながらこの比喩はよくできてる。さしずめアルファブロガーはクソが溜まりに溜まって肥やしになった、というところだろうか。

自分の言葉で語るということ

茂木健一郎波頭亮という人の対談っぽい本で『突き抜ける人材』というのを読む。

  • 自分の意見を、自分の言葉で主張するということ。
  • 誰かの意見を参考にせず、自分の感性で「あれがいい」と言えること。
  • そして批判的精神を働かせること。

プリンシプルという言葉がたびたび出てくる。
二人は日本人に欠けているものとして、このプリンシプルを挙げている。

横文字で書くと何のことやらと思うけど、原則とか信条のことだ。
http://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%97%E3%83%AB

プリンシプルが欠けるとどうなるかというと、ご都合主義が蔓延する。

ご都合主義を抑えるには自らの意見を述べ、議論する必要がある。
もし議論が無ければ、なあなあで物事が運び、誰かのご都合が大きく反映されてしまう事態になる。

ところが、意見を積極的に述べられる人は少ない。
なぜ意見を殺してしまうのか。

空気や批判が恐い。
間違いが恐い。
恐いことに対処するのは面倒だ。
だから無難なところの「権威ある他人様」の意見を引用する。
もしくは何も言わない。

こうすればとりあえず傷つかない。
自分の中にある自尊心を折らずに済む。

批判や空気と闘える、という自信がないのが原因だと思う。
自信をつけるには、思い込むか場数を踏むしか無い。
しかしそんな訓練を学校でやった覚えは無い。

せいぜいやったのは、ディベートの真似事くらい。
それは、どうやったら先生に正解をもらうかという、そういう空気を読みながらの、おままごとみたいなものだった。
むしろ空気を読む力を養う授業になっていたようにも思える。

意見を延べ、批判を受け、それに対して建設的に議論を進めるというスキルがないと、人はモンスターになる。
精神論と恫喝の世界である。
これこそ教育で何とかしてほしい。

少し話が変わるが、むかしサッカー日本代表監督を努めたオシムは日本人に欠けているものとして「ディシプリン」を挙げた。これは「規律」のことである。
日本人は集団行動をするが、そこには規律がある訳ではない。
周囲を伺って、つまり「空気」を読んで行動しているだけ。

ディシプリンは個人が自立した社会で力を発揮する。
独立した個人は空気を読まない。
空気ではなく規律によって、個を組織の中に組み込むのだ。

まとめ。

  • 自らの意見を述べることは自立するということである。
  • プリンシプルもディシプリンも自立から始まる。
  • 意見は自信を養うことで、促すことができる。
  • また意見を言われる側も、寛容であることが求められる。

この一冊を読んでいる最中に、こんな連想をしてしまった。
ついでにこの本の結論は茂木健一郎が私塾を開くということでした。

おつかれさまです。

言い訳は聞き飽きた。とっとと始めろ。の本 - 「見えてる人」になるたった1つの法則

「見えてる人」になるたった1つの法則
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たった1つの法則とは何か。
それは物事を始めること。
つまり、スターターであれ、ということ。

どれだげ入念に準備をしても、始めなければ意味がない。

素晴らしい思いつきや、高いモチベーションがあっても、「開始」されなかったら、それはないに等しい。

といっても起業しろ、と云っている訳でない。
この手の本の中では意外(?)なことも書かれている。

僕たちは、無意識のうちにいろんなことに囚われている。
(中略)
それと同じく、起業家みたいに、世界を変革しようとしたり、リスクをとらなければ、新しいことは始められないものだと、多くの人は考えがちだ。
でも、それは違う。
実は、物事を始めるのに、組織の一員ほど適した場所はない。

組織の中で、小さな一歩を踏み出すことはそれほど難しくない。
小さな、というのがどのくらい小さいかというと、ちょっとした備品の置き方を変えるとか、少し仲間に親切にしてみるとか、そういうことである。
このくらいであれば、すぐ始められるだろう。
そして組織の中には、このような機会が溢れているのである。

しかし、こんな小さな機会ですら、自ら実行する人は少ない。
だからこそ始める人(スターター)の価値は高いのだ。

組織の一員というのは、上からの指示に従っていれば給料がもらえる

これが恐ろしいところで、ただ給料のために従って働くことばかりやっていると、自主性が失われていってしまう。
自分自身に見えない首輪と鎖を繋げてしまうようなものだ。
自主性を失い、飼いならされた人間を待つのは、ロボットなどの代替労働力と競争する羽目になることだろう。

失敗の責任を受け容れることができれば前に進める

自ら動くということは、失敗の責任を受け容れることである。
ここに慣れていない人が多いことだろう。
しかし、大抵の物事は成功よりも失敗の方が多いものだ。
その失敗の過程で気付いたことを改良していき、忍耐強く一歩ずつ進めるかどうかが、成功への鍵なのだ。

自ら始めた物事がすべて正しいとは限らない。 だが、行動を起こさない限り、何も始まることすらない。

小さくてもいい。
始めの一歩を踏み出そう。