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過去記事置き場

製品は機能のネットワークである

  • 機能同士の繋がりの強弱によって提供できる価値が変わってくる
  • 本来は繋がりがあるのに、その距離が遠い場合、ユーザはその有用性を認識できない
  • 単一の機能だけを見れば、おそらくどの製品にも似たようなものはある。しかし、機能同士の繋がりの示し方で価値は変わってくる
  • それは編集的な価値づけである
  • 製品を作るとき、ただ機能の有無だけを見ていると、判断を誤るかもしれない
  • 重要なのは、機能同士の関連性からどれだけ価値を生み出せるかということであり、それを明確に伝えることである
  • 関連性があるのに機能同士が遠い場合、ユーザはそこから新しい価値が生まれることに気づけない
  • 機能単体ではなく、機能の繋がりに着目する
  • そこに本当の独自性の芽が眠っていると思う

勢いのあるうちに書く

思いついたことは思いついたタイミングで書き記さないと、その後書き出したい欲求も思考の勢いも衰えて、やがて消え去る。自分が考えていた何かしらの理屈も意見もこの世界に投げ出されることのないまま死ぬ。

そんなのでいいのか? よくない。よくないぞ。

「もう少し煮詰まってから書き出そう。これはいい考えだから、きっと誰かに感銘を与えるに違いない。だから、もう少し、きちんと考え抜くことが大事なんだ。それまでは書き出す必要はないし、ましてブログで公開する必要もない」などと考えるのは愚かである。なぜならそんなことを考えているうちに書くことは永遠に訪れないからだ。

確かに、いざ書き出してみると、アイデアというのは非常にぼんやりしていた事に気付く。細部は欠けているし、中身も曖昧で、そのアイデアで埋められる行数もほんのわずか。そして「まだ考えが浅かったな」などと言ってエディタを閉じてしまう。

ちょっと待ちなさい。 だから完成しないのです。

そこから先は、どうにかこうにかアイデアを埋めるための苦行が続くかもしれない。それでもとりあえず書き出すことで、ぼんやりとしたアイデアから雑な文章へとステップアップできる。やがて構成が見えてくる。そして、その文章は書き出されるべきものだったのだとわかってくる。

構成を伴って書き出された文章は、時間への抵抗を身につける。仮にあなたが、書き出したアイデアそのもののことを忘れても、再びその雑なテキストを読めば、ぼんやりにでも思い出せるはず。そして、時間の抵抗に打ち克てるのなら、他の人にだって伝わる。脆弱なアイデアが、風に飛ばされてどこかで花を咲かすかもしれない種子へと変わるのである。

勢いで書き出す事には利点がある。その勢いのまま公開できるということだ。細かいことは気にせずに「勢いで書きました」と言える。長い時間を掛けて熟成していると「勢いで書きました」と言いづらくなるので、余計に公開できなくなる。そして死ぬ。

どれだけ時間を掛けようが、どうせ文章の穴なんてそこら中に空いている。 そんなこと気にしてないで、とっとと書き出して公開するのだ。

UXデザインという言葉の不吉さ

UX(ユーザ体験)デザインという言葉には不穏な語感があると感じている。

体験は人の数だけ生まれる。それらが同質のものになることはない。同質であるべき、という考え方は全体主義に通じる。良い体験を生み出したいという意味はわかるが、別の捉え方もできるのだ。一つの雛形に押し込めてしまおう、そのためにユーザを操作してしまおう、という考え方も発生する。これは言葉の用い方の問題だが、その先に待ち受けているのはディストピア的世界である。

かつて映画が最新技術だった頃、純粋に映画技術の粋を集めた作品が結果的に全体主義国家のプロパカンダに用いられてしまった。エイゼンシュタインリーフェンシュタールが生み出した映画は、その後の映画技法を確立する基準になったが、そのあまりにも映画の効果を活用した作品によって、全体主義国家のイメージまでも確立するのを手助けした。全体主義国家が国民を操作する方法を知ったのだ。

UXデザインにも同じことが起きるのではないかと危惧している。 デザイン可能ということは操作可能ということだ。だれかの体験とは、誰かの心の内側で発生する。それを操作可能ということが倫理的に問題にならないわけがない。UXデザインの技法には認知心理学を応用するものもある。人々は操作されていることにも気づかずに、企業や政府によって体験を仕向けることが可能になる。技法は揃いつつあり、邪悪なものに転用が可能なのだ。あるいはすでにされているのかもしれない。だれかの人生を奪うことで利益が生まれるとき、そこにUXデザインの居場所が生まれている。例えばソーシャルゲームのガチャなどは違うだろうか?あれはUXデザインをダークパターンに適用した事例と言えないだろうか。

UXデザインの知見が邪悪であるということではない。技術に悪も善もない。ただ現代科学では脳や神経、認知の領域を切り開きつつあり、人間の生理的な機能をハックすることもまた可能になっている。デザイナーは、ユーザをさも自由意志による選択であるかのような状態に導くことが可能であるという状況を理解すべきである。そこには倫理的な問題が横たわっている。

健全な人間性とは何か。あるいは民主主義という政体を選択している状況において、人々の自由意志に介入するということにどんな問題があるのか。こうしたことを考えておく必要があるのではないだろうか。

日記の功罪

Day Oneというアプリで日記を書いている。 その日の始まりか終わりに、頭に浮かんだことを書き連ねて発散している。 書いているうちに思いがけない考えが浮かんだり、あるいは以前からぼんやりとイメージしていたことが突然言語化されたりする。そういうのは嬉しい。これは日記を書くことのメリットだ。

しかし、デメリットもある。 日記を書くことで断片的なアイデアを書き連ねることはできるが、そこでいい感じに発散してしまって、まとまった文章を書く気力を失ってしまう。

まとまった文章を書くためには、ある程度、自分の内側にモヤモヤを蓄積する必要があると思う。そしてこのモヤモヤに対して、怒りとか喜びとか不安とか、ある種の感情を抱いているからこそ、記事一つを書き上げられるという気がする。

私はプロのライターではないので、仕事で書くということとは別としている。もちろんプロの執筆術があれば、何かしら書けるのかもしれない。しかし、そこに楽しみはないと思う。あるいはこのブログを書く意味が違えてくる。名を売ったり、お金を稼ぐために書いているわけではないので。

では何のために書くのか。 頭の中には色々な形になっていないアイデアや語るべきことが収まっており、それをなんかしらのタイミングで書き出さないと消えてしまうからだろう。そして自分自身がそれを読みたいと考えている。 ほんの少し、そのアイデアを覗くだけなら日記に書けばいいのかもしれない。 それでも、きちんと形になった文章で読みたいと思えるアイデアがある。

日記は書ききらないことが重要なのかもしれない。 発散しきってはいけなくて。 最初の言葉を掴まえるまでの間の、ほんのお遊戯みたいな。 文字を入力する手。 それを読む目。 頭の中で読み上げる言葉。

そうして、日記を書きながら行ったり来たりして、アイデアを形にできそうになったタイミングでブログを書き始める。 この記事も、そのようにして書き上げることができた。 明日からこの方法でしばらくやってみることにする。

FirefoxでWordPressエディタが重い

私は仕事用にChrome, プライベート用にFirefox Developer Editionを使っている。プライベート用のデータを誤って仕事用のアカウントで投稿しないようにするための配慮だ。あと、デザインがFirefox Developer Editionの方が好み。

Surface LaptopでFirefoxからブログ記事を書こうとすると、キー入力中に突っかかる感じがある。

ブログとはこのブログのことで、こいつはWordPressだ。 どうもFirefoxWordPressエディタとの相性がいまいちらしい。 何しろ同じブラウザ環境なのにMacBookの方が軽いくらいだ。 おかしい。

Chromeを使えば解決するんだろうけれど、ブックマークスペースまで仕事用に特化させているくらいなので、いまさらプライベートなブログをChromeで開きたくないと思う。 負けた気がする。面倒である。 何よりも、Chromeに触れすぎて完全に飽きている。 面白みがない。

しょうがないから今もこうしてノロノロと、FirefoxFirefoxについての記事を書いている。それで気付いたんだけど、動作が重いのはタイトル部分とこらしい。なので、そこだけ我慢すれば、ほらこのとおり、記事本文をしっかり書けるのであった。

ちゃんちゃん。

捨てることも設計のプロセスである

効率的に進めなければ罪悪感が生まれる。 進めた先で、気付いたことを取り入れるために、全て作り直すなんてことは最大の無駄なように思える。それを何度も繰り返すとなると、罪の意識が大きい。自分自身を責めるようになる。自信も失われる。あるいはそんな姿を想像して、準備ばかりを練るようになる。先に進めなくなる。結果的に多くの時間を犠牲にしてしまう。

設計は生産とは違う。 途中までの設計を廃棄することは無駄ではない。全てやり直すことがあったとしても無駄ではない。それは必然だ。設計からプロトタイプを作って、素早く問題を見つける。改善する。悪い部分を解決するために、全て作り直すこともある。しかしそれは必然だ。しょうがないのだ。無駄じゃない。

では設計における無駄とは何なのか。

悩んでばかりでプロトタイプを完成させないこと。 時間の無駄である。とっとと試せ。

見つけた問題を小手先で解決してしまうこと。 根本的に解決せず、とりあえずで進めてしまう。 結果的に設計は短時間でできるかもしれない。しかしその問題は長期的には製品に跳ね返ってくる。穴の空いたバケツのようなものだ。もちろん無駄である。

設計のキモは検証プロセスを何度も回すことだと思っている。 そのためには素早くプロトタイプを作る必要がある。敏捷性が求められるのは設計と検証のサイクルだ。ひたすらこれを繰り返す。何度も回し、問題点を修正し続け、妥当な設計を発見する。このために時間を費やす。 この過程で当初の設計は何度も書き直される。しかしこれは無駄じゃない。むしろこれこそが必要なプロセスなのだ。

設計は生産とは違う。同じ効率性を求めてはいけない。 設計の効率性を考えるのなら、アイデアの検証回数を見た方が良いのかもしれない。 もし一度も設計を作り直していないのだとしたら、検証が甘いとも言えるのではないか。

壊して作り直す。 これを繰り返す。 これこそが設計なのではないか。

面倒と感じたそのときこそが行動開始の合図

やらないといけないことは、だいたい面倒くさい。 とはいえ、どうでもいいことはそもそも面倒とは感じない。やるべきことだから、面倒と感じる。面倒と感じたのなら、祝福しよう。それは行動を始める合図なんだ。

面倒ごとが発生したら、もはやそこに選択肢はない。やるしかない。 その仕事を捨てるという選択肢もあるにはある。しかし仮に捨てたとしても、その仕事が解決すべき問題まで消えたわけではない。別の解決策を探す必要があるだろう。面倒な仕事が変わっただけで、面倒ごと自体は消えない。

やり方はどうあれ、面倒ごとが発生した時点での対処法は実質ひとつなのだ。 行動すること。

面倒の種類

面倒にも種類がある。それを考慮しておけば、そもそも面倒に巻き込まれないように準備することはできると思う。種類とは以下の2つ。

  1. 自分にしかできない面倒
  2. 他の人や機械に任せることのできる面倒

1に関してはやるしかない。むしろこのタイプの面倒こそ受け入れるべきだろう。観念して仕事を開始するのだ。

面倒のアウトソース

2は日常的、事務的なものが含まれる。こうした面倒はアウトソースできる。例えば掃除や家事が面倒な場合、ルンバや食洗機などの機械で省力化できる。家事代行みたいなサービスもある。お金を払う必要はあるが、他者に任せることができる。

このタイプの面倒ごとは可能な限り、自分でやるべきではないと思っている。 面倒だと感じている時点で実行にそれなりの意志力を必要とする。他人にもできる仕事に意志力を使ってしまって、1型の仕事ができないのは本末転倒になってしまう。

2タイプの面倒は、面倒になる前にアウトソースするか、そもそも発生しないよう仕組みを用意しておくのが良いと思う。

まとめ

  • 面倒ごとから逃げることはできない
  • やれ
  • 他者や機械を賢く使えば、対処すべき面倒ごとの数は減らせる
  • 自分にしかできない面倒ごとに集中しよう