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過去記事置き場

過度な意識が人を不幸にするのではないか

あまり意識を働かせず、動物のように生きる方が幸福なのではないか。

意識は頭の中に言葉の濁流を生み出す。 「もし〜だったら」 「あれが〜ならどうしよう」 「もっと〜だったのではないか」 「本当にこんな人生で正しいのだろうか」 未来や過去についてあれこれ考えが浮かんできて現在への集中を失う。それどころか、すでに起きたことや、これから起きるかわからないことに囚われる。その結果、現状を動かすことができなくて、予言した通りの不安が訪れてしまう。 あれもこれも意識に時間を取られてしまうことが原因なのではないだろうか。

仏教系の本を読むと、この意識といかに対峙するか、ということが書かれている。 「反応しない練習」などはまさにそうだと思う。

ビジネス系の意識高い(ここにも意識が紛れ込んでいるが)系の本だと、文字通り「もっと意識しないといけない」感がある。しかし、これが不幸の始まりなのかもしれない。 意識すべきは言葉なのだろうか。本当に?意識に自分自身を奪われるほど、意識高い言葉を反芻し続けることは本当に正しいのか。意識高い言葉をたくさん思い浮かべていても、行動が変わらないと意味がない。それどころか意識と言葉に縛られて、より不幸な状況にもなり得る。意識が生み出す言葉で頭の中が溢れている時、私たちは現在に集中できず、本物を価値を生み出すことを疎かにしてしまうだろう。

「習慣の力」という本を読むと、人間の行動の40%は習慣であり、それは意識や記憶領域とは違う部分が関係しているそうだ。40%と聞いて意外と少ないとは思ったが、この習慣を支える領域は脳の古い部分が担っていて、意識を働かせるよりも省エネなのだそうだ。 人間が意識の力を活用できるとすれば、良い習慣を生み出したり、悪い習慣を修正するときではないか。ただ頭の中を言葉を溢れ出させるのではなく、観察し、気づき、行動を修正することとセットなのではないか。

意識の高い言葉は遊びでしかないのかもしれない。意識の高い言葉に絡め取られているとき、私たちは身動き取れなくなる。意識の力は最小限に抑えて、行動に結びつく部分だけ、ほんの少し介入させる程度が幸福感を高めるのではないだろうか。