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「もっと」に意味はあるか

何かが足りない、うまくいかない。 そういう時につい口走ってしまう「もっと」という言葉がある。意識が上がってしまった時に口上に登ることが多い。しかし、この言葉に具体性はないということに気が付いた。

「もっと」は量を示す言葉だ。 もっと練習をしておけば、もっとしっかり考えておけば、もっと静かにしておけば、もっと主張しておけば、もっとお金を貯めておけば、もっとお金を使っておけば。など。 大抵現状の実行量が不足か、あるいは過剰なのを適正な量に調整すれば、あるいはあの時うまく行っていたかもしれない、なんてことを考えるが、本当にうまくいっていたかどうかなんて本当にわかるんですか。

例えば「もっと」何かを頑張ったとして、その先にあるのは次の「もっと」だ。おそらくこの戦いには終わりがない。現状に満たされない気持ちを量の調整でなんとかなると思い込んでいるだけではないだろうか。

何かが「もっと」必要と考えた時、実は本当に必要なものは量ではなく質の変化ではないだろうか。そもそも時間はみな公平に持っているものだ。何かを「もっと」欲しがった時、おそらくどこかで時間を費やすことになるのだが、その場合別の何かを差し出す覚悟がいる。 単純な量の増減ではない問題がここにある。 生き方や考え方や習慣など、「もっと」の前提にあるものの質を変化させなければ、その「もっと」は達成できない。そして質を変化させた時、それは単純に「もっと」的な量の変化によってなし得たことではないことを知るだろう。前提を変えたから達成できたのだ。

つい口走る「もっと」には、単に「現状を変えたい」以上の意識はないのではないか。そして現状を具体的に変えるための言葉としては「もっと」は不十分であり不適切だと思う。もし「もっと」という言葉を使ってしまった時、何か具体的な質の変化にできるはずだと考えるようにすると、人生が捗るのではないだろうか。