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過去記事置き場

売り手と買い手、倫理を問われるのはどちらか

需要と供給で、どちらが倫理を問われるべきか。 少なくとも現状の政治体制においては供給側と考えている。

理由: そもそも需要側の倫理を問うことができない。

基本的人権の尊重と民主制を選択している以上、各人の趣味趣向/思想の自由は守られる。それがどれだけ変わった考えや趣向だったとしても、他者の人権を侵害しない限りにおいて守られる。需要側の倫理を問う場合、こうした思想の自由を侵害することになる。少数派の「キモい人たち」を排除する力が生まれる。しかしそれは思想の自由に反する。

欲望に善悪はない。それは本能である。ただ、多くの人が抱いている欲望なのか、限られた人たちしか抱いていない欲望なのか、という違いしかない。需要側の倫理を問うとき、おそらく多数派の欲望は「正しい欲望」として容認され、少数派の欲望は糾弾されるだろう。相対的なものでしかないのに。

社会的に忌避される種類の商品であっても、それが買い手の趣味趣向と価格帯がマッチすれば、買ってしまう可能性は高い。人間の雑多な欲望を抑えるのは非現実的に思われる。それは存在するものとして受け容れた方が整合的ではないだろうか。

従って倫理を問われるべきなのは、人間の欲望を察知して、それを商品化することで利益を上げる供給側である。もっと言えば「どの欲望に応えるか」よりも、それを「どのように実現するか」という手段の方が倫理を問われるのかもしれない。

例えば「気晴らしがしたい」という欲望に対して、ゲームを供給するのか、麻薬を供給するのかでは随分と違う。「自社の商品を知ってほしい」という欲望に対して、専用の広告スペースを売るのと勝手に大量のチラシを投函するのでも随分違う。後者は切腹すべき。

供給側の倫理観が問われるのは、何もビジネスを考える人間だけではない。デザイナーやエンジニアのような作り手にも必要である。具体的な商品を作っているのは彼らだからだ。商品とはどうあるべきかという倫理観を持たなければ、利益が出るからという理由だけで破滅的な商品がリリースされてしまうだろう。

この辺りはまた別の機会にでも考えたいと思う。