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UXデザインという言葉の不吉さ

UX(ユーザ体験)デザインという言葉には不穏な語感があると感じている。

体験は人の数だけ生まれる。それらが同質のものになることはない。同質であるべき、という考え方は全体主義に通じる。良い体験を生み出したいという意味はわかるが、別の捉え方もできるのだ。一つの雛形に押し込めてしまおう、そのためにユーザを操作してしまおう、という考え方も発生する。これは言葉の用い方の問題だが、その先に待ち受けているのはディストピア的世界である。

かつて映画が最新技術だった頃、純粋に映画技術の粋を集めた作品が結果的に全体主義国家のプロパカンダに用いられてしまった。エイゼンシュタインリーフェンシュタールが生み出した映画は、その後の映画技法を確立する基準になったが、そのあまりにも映画の効果を活用した作品によって、全体主義国家のイメージまでも確立するのを手助けした。全体主義国家が国民を操作する方法を知ったのだ。

UXデザインにも同じことが起きるのではないかと危惧している。 デザイン可能ということは操作可能ということだ。だれかの体験とは、誰かの心の内側で発生する。それを操作可能ということが倫理的に問題にならないわけがない。UXデザインの技法には認知心理学を応用するものもある。人々は操作されていることにも気づかずに、企業や政府によって体験を仕向けることが可能になる。技法は揃いつつあり、邪悪なものに転用が可能なのだ。あるいはすでにされているのかもしれない。だれかの人生を奪うことで利益が生まれるとき、そこにUXデザインの居場所が生まれている。例えばソーシャルゲームのガチャなどは違うだろうか?あれはUXデザインをダークパターンに適用した事例と言えないだろうか。

UXデザインの知見が邪悪であるということではない。技術に悪も善もない。ただ現代科学では脳や神経、認知の領域を切り開きつつあり、人間の生理的な機能をハックすることもまた可能になっている。デザイナーは、ユーザをさも自由意志による選択であるかのような状態に導くことが可能であるという状況を理解すべきである。そこには倫理的な問題が横たわっている。

健全な人間性とは何か。あるいは民主主義という政体を選択している状況において、人々の自由意志に介入するということにどんな問題があるのか。こうしたことを考えておく必要があるのではないだろうか。