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イメージの浸透 - 『ニーチェの馬』

劇場の中で楽しませてくれて、劇場を出た後は綺麗さっぱり忘れてしまう映画がある。
劇場の中では忍耐を要求される映画があって、しかし劇場を出たあと、それも数日経ってから、映画の中のイメージが頭のなかに焼き付いて離れない映画もある。

前者は面白い映画だし、後者は良い映画だ。
前者は娯楽映画と言えるし、後者は芸術映画と言えるだろう。

タル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』は間違いなく後者の映画である。

ニーチェの馬 [DVD]ニーチェの馬 [DVD] [DVD]
出演:ボーク・エリカ
出版: 紀伊國屋書店
(2012-11-24)

160分近い映画にも関わらず、舞台は丘に囲まれた一軒の家とその周辺だけ。
全編モノクロームで、世界の終わりの6日間を限られた条件下で描く。
世界の終わりでありながら、ほとんどプロットが存在しない。
ただ日を追うごとに、世界が終わっていく。
主要な登場人物は、父と娘の二人。
その二人の6日間の日常を160分間、眺め続ける。

外は猛烈な風が吹き続けていて、止むことはない。
1日目で虫の音が聞こえなくなり、2日目で馬が餌を食べなくなる。
4日目で突如井戸が枯れ、5日目の終わりにはこの世界から光が失われる。
6日目、火がつかなくなり、ランプも調理もできなくなる。
暗闇の中、父と娘は馬鈴薯を生で食べる。

たったこれだけの話である。
これを朝目覚めて、水を汲みに行って、酒を飲んで、馬の世話をして、飯を食べて、家事を行なって、窓から外を眺めて、眠りにつく二人の姿を、少しずつ端折りながら淡々と追っていく。

話としては何の起伏もない。
いま思い出すと、ドラマ的要因からくる行為がほとんどない。
井戸が枯れた後に一度だけ、外に逃げようとした時くらいではないだろうか。
ほとんどの行為が習慣の行為なのである。
自動人形のように決められた動作をし続ける父と娘。
永遠に同じ事を繰り返すかのような二人にとっての世界の終わり。

タル・ベーラ監督は、ドラマから生まれる行為よりも、日常的行為の方が崇高であることを描きたかったのかもしれない。
唯一のドラマ的行為と言える4日目の脱出劇は、映画の中であっさりと敗北する。
全てが闇に包まれ、火も使えず、馬鈴薯を茹でることができなくなった最後のシーンで、生のまま食べようとしない娘に父は「それでも食べるのだ」と語る。
日常は死ぬまで続くのである。
これこそが、人間というものではないか。

この映画が頭から離れない、ということを知ったのは数日経ってから。
モノクロームの黒いべっとりとした影を纏った娘が、井戸へ水を汲みに行き、馬鈴薯を茹でて、それをテーブルに運び、そして父がその馬鈴薯を貪り食う姿をぼんやりと、しかしハッキリと覚えている。
単なる日常も繰り返し描かれると、自分の記憶の一部か、あるいは記憶よりもより深いところに染み付いてしまうのかもしれない。

この映画は観るべき映画だろうか。
観るには覚悟の要る映画であることは間違いない。160分間日常を見続けるのは結構しんどい。
しかしそれを覚悟した上で「父と娘の世界の終わりの6日間の日常」にピンと来たのなら、観た方がいい。
そして、観終わった後、早急に映画の善し悪しを判断しないこと。
二週間くらい放っておいても、ぼんやりとしたイメージが頭から離れないことがある。
そのとき初めて、この映画について語れるようになると思う。