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過去記事置き場

『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

売れないミュージシャンと一匹の猫。

なぜ犬ではなく猫なのか。
ルーウィンは犬ではない。
彼には自分のルールがあり、そのルールを曲げてまで生きようとはしない。
その生き方は決して犬ではない。
それは猫の生き方だ。
だから猫なんだろう。たぶん。

居候先の猫がなぜルーウィンと一緒に外に出ようとしたのかは知らない。
その名の由来にふさわしい冒険心の現れだろうか。

そういえばルーウィンも、というかディヴィスの父親は海の男として生計を立て、ルーウィン自身も海で働くための免許を持っていた。
色々と繋がりがある。

この映画は、メビウスの輪のような感覚を与える構成となっているが、よくよく思い直せばそうではない。ただ同じシークエンスで映画を挟んでいるだけだ。けれど、この構成のおかげで別の景色が見えてくる。控えめなトリックで作品に深みを与えてくれる。
ファンタジーではないのだけれど、映画の持つ力を駆使してギリギリの境界線上に立とうとしているのだ。

構成はまったくハリウッド的ではない。
コーエン兄弟にも関わらず、製作費11億という低予算で作られているのはそういう理由なんだろう。
けれど僕は、この映画の構成、トーン、リズムが好きだ。
このリズム感は、自分が好きなジャームッシュ映画を思い出させる。

猫が冒険に出かけて、ルーウィンはそれに巻き込まれて、しかも途中で猫の方にほっぽり出された上に、訳の分からない連中とシカゴまで陰鬱になる旅に出かける羽目になる、という解釈だって成り立つ。 この映画の本当の主人公はたぶんあの猫なんじゃないだろうか。

映画の最後の方で、いつの間にか帰ってきていた猫が二度目の冒険に出かけようとしたのを足蹴に阻止したルーウィンは、そこでファンタジーから現実に帰ってきたとも言える。

ラストシーン。
謎の男に殴られ、そいつがタクシーに乗って去って行く姿に、へたり込んでいたルーウィンが投げかける「あばよ」という台詞は、この映画のマジックに対するサヨナラのメッセージなんじゃないだろうか。