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とあるFacebookページの失敗からコミュニティデザインを考える

とあるFacebookページが失敗した(おそらく運営者の意図を達成することが出来なかった)という現象を目の前に見て、優れたコミュニティデザインとは何だろうと改めて思いました。
Facebook ページはコミュニティです。
たったひとりの人間がたくさんの言葉を語り続けることは本質ではないと思います。
自分のことばかり語っていてはコミュニティは活性化しません。
もし一方的に語りたいのならブログやTwitterに書くべきです。
自らを権威のように振る舞う行為は、語り手を気遣う、遠慮した相手しか居なくなるのも当然です。
タイムラインに浮かび上がる言葉が、たった一人のものだったとしたら、それはただの講演と同じです。
たとえ語り手の言葉に強い力と説得力があったとしても、それだけではコミュニティは成立しないのです。

あなたが必要です、と語れることが大切なのではないかと考えています。
いろんな人に来てもらい、彼らに発言してもらう。関わってもらう。
コミュニティメンバーの活動に対して認識をする。質問をする。視点を与える。
 
優れたデザインのコミュニティは講演会ではなく、まるでワークショップのようにメンバー同士が交流し合い、困ったときには運営者が助けるというように出来ているのではないでしょうか。
そう。だからキーワードは「助ける」だと思います。

示唆する。アイデアを閃かせる。
そのために、質問をしたり、ちょっとした問題を出したりする。

もしかしたらコミュニティにでもゲーミフィケーションは役に立つのかもしれません。
参加を促し、またメンバーの行動の結果を把握しやすい。
行動が見えれば、運営者は質問を投げかけたり、取り上げることが出来ます。
さらなるメンバー同士の交流や、解決するべき問題が見えてくるのではないでしょうか。

今回、落ちていくFacebookページを見て思ったのは「オレはこれが欲しい」「こういう風にするべきだ」という姿勢のコミュニティというのは、よその人には入りずらく、遠目から見る人は居ても、なかなか参加してくれないのだなあと思いました。
また参加してくる人は金魚の糞みたいな人ばかりで、結局そのコミュニティに入ることがひとつの宗教を信奉するのと同じになってしまい、何も楽しくなく得るものもないなと思わせてしまいます。 

どのような意図でそのコミュニティを生み出したのかにしろ、素直にそれを叫び続けることが発展につながる訳ではありません。
参加したメンバーを「助ける」という行為。
そして助けたメンバーがさらに新しいメンバーを「助ける」という連鎖。
こういった繋がりを生み出すことにもっと意識を集中するべきです。

それから。
コミュニティの失敗を参加している人間のせいにするのは最低だと思いました。

アート・オブ・コミュニティ ―「貢献したい気持ち」を繋げて成果を導くには
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