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ハート・ロッカーを観て映画表現の変遷に想いを馳せる

イラクに駐留する米軍の爆弾処理班を描いた作品『ハート・ロッカー』を観た。
イデオロギーの臭いはなく、兵士を人間と感じられるように描いている。
なぜそのように感じたかというと、視点が非常に兵士に近いのである。
米軍は移動にハンヴィーを使う。
カメラはこのとき、社内に居て、乗客の一人として乗り込んでいるような感覚になる。
それはまるでその場に「参加」している感覚である。
つまりリアリティを感じたということ。

なぜ視点が近いと感じ、「参加」している感覚を与えるのだろうか。

僕はカメラに不自然さが少ないと感じていた。
他の人はあれを観て、リアリティがあると思う。

とくにネットを使っている年代からするとなおのこと、そう感じられるかもしれない。


この映画が現代的だと思うのは、まるで良く出来たYouTubeの映像を見ているように思えるからだ。
撮影者の視点であることを強く感じさせる。

かつて映画においてカメラの視点がその場所にあることを意識させるのは良くないことだと思われていた。
スピルバーグの映画を観て臨場感を味わった年代であれば、一度たりともその映画を誰かの視点だと思ったことは無いだろう。
すべて、自分の視点で観たことのように感じたと思う。

しかし『ハート・ロッカー』は誰かの視点なのである。
そしてあなたはそれを眺めている。

映画表現は演劇の模倣から入っていった。
またフィルムで撮影するには必要な光量というものがあったため、技術的な制約も多かった。
ヌーヴェルバーグはスタジオの外にカメラを持ち出したが、そこでも技術的な制約というものがあった。
例えば室内で撮影するときでも見えないところで照明を照らして部屋全体の光量を増やすなどという工夫が必ず必要だった。
そして少ない光量で綺麗に撮影するには、レイアウトにも大きな制限を受ける。
仮に二人の人物が対話する場合、横に並ぶような構図が多くなった。
こうしないと両者に対して、ピントが合わなくなるのである。

こういった制限の中で磨かれた映画的表現手法は、やがてカメラの視点というものを意識させない、自然なものに仕上げさせていった。
そして観客も、それこそが映画だと感じるようになっていく。

しかし技術の発達によって、撮影時に必要な光量というものがどんどん低くなっていった。
そして近年ではコラテラルのような、極めて少ない光量で夜の街での臨場感ある撮影というものが可能になっていったのである。

またテレビメディアで使われる報道の映像や、インターネットで流されるユーザーによって撮影されたホームムービーなどが、画面の荒れを手抜きではなく、むしろリアルと受け取らせる感覚を与えている。

影技術の発達と、受け手の感度の変化によってかつてとはリアリティに対する感覚が変わった。
そして『ハート・ロッカー』はそういった変化に合わせて表現方法を「誰かのリアルな視点」として描いたのではないかと思う。

これは映画的表現が変化せざるを得ないときにきたと言っていい。
インターネットは歴史を変化させるほどの力を持ったテクノロジーだが、その波は映画表現にも及ぼしている。
観客の感覚の変化を見落としていては表現者として失格の烙印を押されるだろう。