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過去記事置き場

批判の必要性について

公共の場での発言は、公共の場で批判されるべきだ。

とある人が「ダメ出しは裏でこっそりやろう」と書いている記事を見つけた。
おそらく「ダメ出し」とは批判のことだろう。
ここでは「公の場での批判は良くない」という風に例の記事を受け取って、批判の必要性について考えてみる。

最初の一文で書いたとおり、公共空間での発言は同一の公共空間で批判されるべきである。
すでに発信してしまった情報に対して、裏で批判してもしょうがない。

仮に批判にさらされる側の発言が間違っていたとしよう。
問題は、裏で間違いを指摘する批判があったとしてもそのフィードバックが公共の場からは見えないのである。

そうなると公共の場には間違ったままの情報がそこに居座る。
民主主義の政体を選択している国家からすれば、これは大変危険な状況である。
もし民衆が間違った情報を元に判断を下せば、国家そのものが危機に陥ってしまうだろう。

公共の場で批判することによって性急な判断に歯止めを掛けることができる。
仮に批判が的外れであったとしても、別の視点が提示されることにより「他にも選択肢があるのでは?」と考えることができる。
こうして公共の場に「慎重さ」という概念が立ち現れる。

批判が必ずしも正しいということはない。
また、最初の発言が完全に正しいと言うこともほぼないだろう。

批判を受けることによって、最初の発言を修正する機会が得られる。
より多面的に説得力を持った意見を鍛え上げることができる。
自説が正しいにせよ間違っているにせよ、批判にさらされることでその正確さや説得力は試される。

公共の発言は、公共の場に残り、公共を形作る。
ゆえに公共の場での発言は、公共の場で批判されなければいけない。
でなけらば正しい在りようというものを失って、全体主義ファシズムみたいな嫌な世界にたどり着いてしまうだろう。

ところで、批判を公の場でしない方がいいこともある。
それがどういう場合かというと、そもそもの発言が私的な空間の場合である。
この場合は、みんなが居る前で批判してやりこめるのは賢くない。
単に恥をかかせているように思えてしまう。
まずい点があるのなら、後ほど、それこそ「裏でこっそり」伝えると良いだろう。
(逆に、良い点はその場で賞賛すると会話の輪が拡がる、らしい)

インターネットは公共の場だろうか。
それとも私的な場だろうか。

私は前者と考えている。
私的として考えるのなら、それは適切なアクセスコントロールが為されているべきであり、赤の他人からはどうやっても見えないようにしなければいけない。
そうした制御が自分でできないというのであれば、やはりそれは公共の場での発言なのである。

そしてもちろんTwitterもブログも公共の場ということになるので、この記事も批判にさらされる運命にあるということになる。

ということでみなさん、なにとぞお手柔らかに。