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過去記事置き場

「もっと」に意味はあるか

何かが足りない、うまくいかない。 そういう時につい口走ってしまう「もっと」という言葉がある。意識が上がってしまった時に口上に登ることが多い。しかし、この言葉に具体性はないということに気が付いた。

「もっと」は量を示す言葉だ。 もっと練習をしておけば、もっとしっかり考えておけば、もっと静かにしておけば、もっと主張しておけば、もっとお金を貯めておけば、もっとお金を使っておけば。など。 大抵現状の実行量が不足か、あるいは過剰なのを適正な量に調整すれば、あるいはあの時うまく行っていたかもしれない、なんてことを考えるが、本当にうまくいっていたかどうかなんて本当にわかるんですか。

例えば「もっと」何かを頑張ったとして、その先にあるのは次の「もっと」だ。おそらくこの戦いには終わりがない。現状に満たされない気持ちを量の調整でなんとかなると思い込んでいるだけではないだろうか。

何かが「もっと」必要と考えた時、実は本当に必要なものは量ではなく質の変化ではないだろうか。そもそも時間はみな公平に持っているものだ。何かを「もっと」欲しがった時、おそらくどこかで時間を費やすことになるのだが、その場合別の何かを差し出す覚悟がいる。 単純な量の増減ではない問題がここにある。 生き方や考え方や習慣など、「もっと」の前提にあるものの質を変化させなければ、その「もっと」は達成できない。そして質を変化させた時、それは単純に「もっと」的な量の変化によってなし得たことではないことを知るだろう。前提を変えたから達成できたのだ。

つい口走る「もっと」には、単に「現状を変えたい」以上の意識はないのではないか。そして現状を具体的に変えるための言葉としては「もっと」は不十分であり不適切だと思う。もし「もっと」という言葉を使ってしまった時、何か具体的な質の変化にできるはずだと考えるようにすると、人生が捗るのではないだろうか。

仕事は永遠に終わらない

仕事というものは永遠に終わりがない。 やるべきことは無限に増える。 完成など、目論んではいけない。

締め切りというのは、ただその日に出荷可能にするだけだ。 完成したわけではない。

仕事に果てはないのだから、私たちにできることは「いつでも出荷可能」にしておくだけだ。市場に出荷できるということは、価値があるということだ。価値があるとは?役に立つってこと。

役に立つものを少しずつ積み立てていけば、いつでも出荷可能になる。 これを達成するためには適切な仕事の分解と、「仕事は終わるものだと思い込んでいる人」に対するマネジメントが必要になる。面倒だがこれを放棄すると、仕事を終わらせるために連日無茶なスケジュールで働くことになる。仮にこれがうまくいくと次からも同じように働くようになり、そして終わりない仕事を終わらせるという無茶な仕事を延々と続けることになるだろう。あなたの体壊れるまで。

仕事に終わりはない。 いつでも出荷可能なレベルを維持できるよう仕事を分割する。 大事なことはこれだけだ。

良いは説明できるのか

なぜそれが良いものなのか、客観的に説明できるだろうか。 「それ」はなんだっていい。自分が良いと思っているものなら。 良さを説明するとき「これが本質だ」と言える言葉がすっと出てこないことが多い。最終的には「悪いところがない」という話に落ち着くことさえある。良さを客観的な良さとして伝えることはとても難しいことなのではないだろうか。

反対に「悪い」は説明しやすい。 粗を見つけては、それっぽい説明を加えるだけで納得感が出てくる。リストアップした粗のどれかが実際に「悪い」印象を与える原因である可能性も高いのではないか。

説明可能であることが「悪い」領域にいることを示していたりしないだろうか。理性で説明できるうちは、人が感じる「良い」領域に接触していないのではないか。

良い製品が、実のところ「悪くない」製品である可能性もある。目につく悪いところを無くす(あるいは隠蔽する)ことで、感覚的にはマイナスの感情が出てこなくなる。その中でユーザが良いところを主観的にも見つけることができれば、「うまく説明できないけど良い製品」になるのかもしれない。もしそのユーザに刺さらなくても「悪くないんだけど良くもない」という意見になりそうな気がする。 ジョブズのほめ言葉の一つが「悪くない」だったのは、こういう観点が関係しているのかもしれない。悪さを徹底的に取り除けば、あとはユーザの主観的な印象でしかない。もしそこで少しでも良い体験を与えることができればそれは「良い」と認識されるのではないか。

そう考えると良いと悪いは対立概念ではないのかもしれない。 「悪い」の反対は「悪くない」だし、「良い」の反対は「良くない」。 もしかしたら良いと悪いは同居することだってあり得そうだ。その悪さを良さと感じる感性の人だって居ることだろう。

一旦ここで自分なりの結論を出しておく。 「良さ」は説明不可能な良さがある。それは説明できないと考える。「良さ」を説明するには、「良さ」の外側を全て説明することでネガティブスペースの描画によって初めて説明できるのではないだろうか。 「悪さ」は説明可能な粗を持つ。「なぜ悪いのか」を説明できる。最初は直感的に何か良くないと感じるのかもしれないが、それを丁寧に辿っていくと「悪さ」を説明できる。それが「悪さ」たる所以である。

しばらくはこの仮説で世の中を見つめてみて、また違ったら新しい説を考えたいと思う。

過度な意識が人を不幸にするのではないか

あまり意識を働かせず、動物のように生きる方が幸福なのではないか。

意識は頭の中に言葉の濁流を生み出す。 「もし〜だったら」 「あれが〜ならどうしよう」 「もっと〜だったのではないか」 「本当にこんな人生で正しいのだろうか」 未来や過去についてあれこれ考えが浮かんできて現在への集中を失う。それどころか、すでに起きたことや、これから起きるかわからないことに囚われる。その結果、現状を動かすことができなくて、予言した通りの不安が訪れてしまう。 あれもこれも意識に時間を取られてしまうことが原因なのではないだろうか。

仏教系の本を読むと、この意識といかに対峙するか、ということが書かれている。 「反応しない練習」などはまさにそうだと思う。

ビジネス系の意識高い(ここにも意識が紛れ込んでいるが)系の本だと、文字通り「もっと意識しないといけない」感がある。しかし、これが不幸の始まりなのかもしれない。 意識すべきは言葉なのだろうか。本当に?意識に自分自身を奪われるほど、意識高い言葉を反芻し続けることは本当に正しいのか。意識高い言葉をたくさん思い浮かべていても、行動が変わらないと意味がない。それどころか意識と言葉に縛られて、より不幸な状況にもなり得る。意識が生み出す言葉で頭の中が溢れている時、私たちは現在に集中できず、本物を価値を生み出すことを疎かにしてしまうだろう。

「習慣の力」という本を読むと、人間の行動の40%は習慣であり、それは意識や記憶領域とは違う部分が関係しているそうだ。40%と聞いて意外と少ないとは思ったが、この習慣を支える領域は脳の古い部分が担っていて、意識を働かせるよりも省エネなのだそうだ。 人間が意識の力を活用できるとすれば、良い習慣を生み出したり、悪い習慣を修正するときではないか。ただ頭の中を言葉を溢れ出させるのではなく、観察し、気づき、行動を修正することとセットなのではないか。

意識の高い言葉は遊びでしかないのかもしれない。意識の高い言葉に絡め取られているとき、私たちは身動き取れなくなる。意識の力は最小限に抑えて、行動に結びつく部分だけ、ほんの少し介入させる程度が幸福感を高めるのではないだろうか。

生きた思考を掴まえるのが難しい

思考の閃きは突然にやってくる。 もしその瞬間を掴むことができれば、やすやすとテキストを書き出せるだろう。その瞬間は勢いがあるし、ちょっとの間違いも気にしない。冷静さを失っているとも言える。熱病みたいなものかもしれない。

問題はその閃きが、文章を書き出せない時間にくることだ。例えば仕事中とか。そうするとメモする程度に終わる。後日そのメモを取り出して長文にしたためれば良いのだが、なかなかそうはいかない。メモに書いてあることはわかるし、書く意味も理解しているが、なにぶん勢いが失われてしまっている。考えて書くことはできるだろう。でも、脱線しながらも最後まで到達するための熱量が失われていて、それに依存している自分は書き出せない。

死蔵しているたくさんのメモ。その中には刺激的なものもあったが、その時思い描いたイメージはほぼ失われた。こうしたことを繰り返したくないために、このブログも始めたのではあるが、やはりタイミングを失ってしまうことは起きる。 どうしたらいいだろうか。

例えば閃いた瞬間にもっとしっかりメモを取ることを自分に許すというのがあるだろう。 なんだったら直接ここにWIPの記事として書いてしまうのはありかもしれない。 後からでも熱や鮮度に依存しないで書き上げる力を身につける、というが真っ当なところだろう。考える・書くという基本的な力を身につける。

上記2点を意識して、閃いたことを書くことにつなげて、この場で公開していきたいと思う。

Medium から WordPress へ移行した

日記ドメインの t.nantekkotai.com を Medium パブリケーションからこちらの WordPress に移行した。理由としてはもっと気軽に書きたかったから。

どうにもMediumに気軽な雑文をアップする気力がわかなかった。それなりの長さなら良いのかもしれないが、日頃の中で起きたことやそこからの学びなど、中途半端なテキストでも公開していこうとなると気後れしてしまう。 もやもやとした思考であっても公開していこうという気分が今まさに盛り上がっている。このビッグウェーブに乗るには世界の片隅で発信する程度のもので良いと思った。Mediumだと世界共通のストリームに流れてしまうし、自意識をそんなところに放流するのはちょっと気が引けたのだ。

DayOneにも日記を書いていたが、そちらもやめようと考えている。自分の中だけで思考を堂々巡りさせていてもしょうがないと思った。 ここは世界の片隅かもしれないが、それでも世界に対して開かれている。伝える意思を持った上で書くのとそうでないのとでは最終的なまとまりが違う。そのまとまりが半ば強制的にもたらされるものだとしても、結果的に自分自身の現在の思考をまとめるのに役立つわけで、それは悪くないことだ。

そうは言っても可能な限り日記のように日々綴ってゆきたい。 兼好法師のように、徒然なるままに。

投機は投資に先行する

投機は無駄で投資は有益である、というイメージがあった。 しかし、最近はこれは少し違うのではないかと思うようになった。投機と投資は別物ではなく、単なるステージの違いにすぎないのではないか。投機的行為なしに投資すべきものを見いだすのは難しいのではないかと考えるようになった。

戦略といえば選択と集中である。 しかし何に集中するのが正しいのかを見極める方法がない。社会的に正しいと思われているものに投資しても、他の人間も同じような考えであれば見返りは少ない。結局自分に合ったもので、かつ他とは違うものを探す必要があり、この探査行動こそ投機的な方法でないと見つけられないのではないだろうか。

いわゆるチャレンジというやつは投機的である。そこに効率やコスパってやつを前提に入れてしまうと、一歩踏み出す勇気が萎える。投機的であるということは、効率もコスパも全て捨て去り「うまく行ったら良いことがありそうだ!」という漠然とした一心だけで飛び込む。 若い時は自然とこれができた。しかし無駄に年をとると反応が鈍くなるために、ゆっくりと大人の脳みそが立ち上がるかと思えば、無駄な行為をさせないためにブレーキを踏んでくる。投機的活動が減ることで生活の幅も小さくなっていくことを痛感する。

人生を後悔したくないなら投機的活動が必要だ。 まだやってないことに積極的に金と時間を使う。それは投資ではないが、いずれ投資するべき活動かどうかを見極められるようになるかもしれない。基本は無駄なことであるが、そうでもしないと未来へ道が開けない。100個すべてが無駄な浪費になり得るが、その中で人生を通して投資し続けたいものを見つけ出せれば、それだけでみっけもんではないだろうか。