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過去記事置き場

個性と独自性について考える

個性について

  • 個性とは抑えつけても表れてしまうもの
  • 個性とは生まれ持っての特性
  • むしろ個性を如何にして抑制するか
  • それこそが技術の本懐ではないか
  • 本物の個性はどれだけ抑えつけても表出する
  • 自ら装うものは個性ではない

独自性について

  • 個性に対する独自性という考え方
  • 独自性は個性も内包している
  • 自らの特性だけでなく理性的な選択の結果も独自性になる
  • 個体の特性に頼った個性よりも、独自性の方が価値があるのではないか
  • 目的のための選択が独自性をもたらす
  • 目的を達成するために生み出した技法も独自性を発揮する
  • そうした独自性は個人だけでなく組織、ひいては社会に便益をもたらす

まとめ

  • 個性は抑制する(どうせ表れる)
  • 独自性は理性的な選択の結果
  • 個性的であろうとしない
  • 高い目標を掲げ達成することを目指す
  • そうすれば自然と独自性を帯びてくる

売り手と買い手、倫理を問われるのはどちらか

需要と供給で、どちらが倫理を問われるべきか。 少なくとも現状の政治体制においては供給側と考えている。

理由: そもそも需要側の倫理を問うことができない。

基本的人権の尊重と民主制を選択している以上、各人の趣味趣向/思想の自由は守られる。それがどれだけ変わった考えや趣向だったとしても、他者の人権を侵害しない限りにおいて守られる。需要側の倫理を問う場合、こうした思想の自由を侵害することになる。少数派の「キモい人たち」を排除する力が生まれる。しかしそれは思想の自由に反する。

欲望に善悪はない。それは本能である。ただ、多くの人が抱いている欲望なのか、限られた人たちしか抱いていない欲望なのか、という違いしかない。需要側の倫理を問うとき、おそらく多数派の欲望は「正しい欲望」として容認され、少数派の欲望は糾弾されるだろう。相対的なものでしかないのに。

社会的に忌避される種類の商品であっても、それが買い手の趣味趣向と価格帯がマッチすれば、買ってしまう可能性は高い。人間の雑多な欲望を抑えるのは非現実的に思われる。それは存在するものとして受け容れた方が整合的ではないだろうか。

従って倫理を問われるべきなのは、人間の欲望を察知して、それを商品化することで利益を上げる供給側である。もっと言えば「どの欲望に応えるか」よりも、それを「どのように実現するか」という手段の方が倫理を問われるのかもしれない。

例えば「気晴らしがしたい」という欲望に対して、ゲームを供給するのか、麻薬を供給するのかでは随分と違う。「自社の商品を知ってほしい」という欲望に対して、専用の広告スペースを売るのと勝手に大量のチラシを投函するのでも随分違う。後者は切腹すべき。

供給側の倫理観が問われるのは、何もビジネスを考える人間だけではない。デザイナーやエンジニアのような作り手にも必要である。具体的な商品を作っているのは彼らだからだ。商品とはどうあるべきかという倫理観を持たなければ、利益が出るからという理由だけで破滅的な商品がリリースされてしまうだろう。

この辺りはまた別の機会にでも考えたいと思う。

Amazonを使うのに税金のことまで考えるべきなのか?

Amazonが日本に対してまともに税金を払っていないという話題が度々上がる。 こういうのはAmazonだけでなくて、外資であるならば可能な限り税金を払わずに済ます何かしらのハックをしていると思う。国に対して税金を払わないような企業から購入するべきじゃないという話も聞いたことがある。

ただ一消費者からすれば、それはどうでもいい話だ。 より顧客に対して還元しているのはどちらか、という話ではないのか。 もちろん消費税分が丸ごと値段から差し引かれているのかもしれない。内資企業はそれをどうにかしてポイントで還元しようとしているのかもしれない。しかしどうでもいい。安いのはAmazonなのだ。もうこれ以上、何かいう必要があるのだろうか。

スパムメールを送ってこないのも楽天ではなくAmazonだし、使いやすいUIを提供しているのも楽天ではなくAmazonだ。まともなパスワード長を許可しているのも、二段階認証を使えるのもAmazonだ。

そりゃもちろん問題だってあるだろうが、利用者側の利益になる施策をより多く行っているのは明らかにAmazonの方だ。

もし楽天外資Amazonが内資、それで価格が逆転していたとしても、自分はAmazonを使うだろう。事実現状においても、価格コムでAmazonより安い価格で購入できるサイトがあっても自分はAmazonを使っている。Amazonを使う心理的な利点が価格差を埋めているのだ。

税金云々でAmazonから顧客から引き剥がしたいのなら、まともなサービスを提供できるようになってから言って欲しい。話はそれからではないのだろうか。

「したい」の死体

「したい」を積み重ねても、しない。

大事なのは「した」を積み重ねること。

願望を積み重ねても実績にならない。人生は前に進まない。

恥ずかしながら私も、内々に「したいことリスト」をせっせと日々書いていましたが、ちっとも実行しないことに気付きました。

これでは意味がない。期待と実績のギャップがデカすぎると、自尊心が傷付いて自信を失うか、存在しない虚構を築き上げて現実から認識が離れるか。どっちにしろ良いことがない。

「した」ことを基準に考える方がいい。行動したことが言語になる。やったことを口にした方がいい。やり遂げたことをリストアップした方が自信になる。

何も成し遂げいなかったら?その現実だけ受け止めて一つずつ「した」を積み重ねよう。

死体からは卒業するのです。

断片的な考えを書き出すことの重要性

ブログの更新がちょっとばかし停滞してしまった。原因として「もうちょっと考えがまとまったら」という考えがある。しかし、考えがまとまることなど滅多にないのだと悟った。そんなことよりも、断片的であっても、ひとつ書き上げた時がゴールなのだ。前に進むにはこれを繰り返すしか方法はない。

書けない理由のもう一つは「まとまった時間があれば」というものだ。社会人になってもう10年以上経つが、その中の学びとしてひとつ断言できることは「まとまった時間に期待するな」ということだ。この断片化された時間の中で上手いことやるしかない。

この2つのまとまり、思考のまとまりと時間のまとまり、に惑わされない。そんなものはないんだあきらめろ。断片化された思考と断片化された時間を活用して少しずつアウトプットを積み重ねること。積み重なった断片は、新しいまとまりを形成するかもしれない。それをあるタイミングで編集して、最初に夢見ていた、まとまった思考として整形して外に出すのが良いだろう。

というのが今のところの意見です。ついでにこの記事は休憩時間の5分を積み重ねて書かれました。やればできる。

批評の価値について

批評はなぜ必要なのか? 一般的には、批評とは粗探しのように思われているのかもしれない。しかし、粗探しや否定的な意見を言ってスカッとしている人たちは批評をしているのではない。あれは単に粗探しをしているだけだ。それだけだ。

自分なりの答えとしては、批評とは「対象の価値を発見する行為」なのではないか、と思っている。

例えば石がある。自然界の中ではありふれた石だ。山の中、河岸、そういうところでは他の石とは見分けもつかない。しかし、その石を居間に持って来たらどうだろうか。机の上にポツンとあったら意味ありげかもしれない。あるいはその石よりも小さい砂利をひきつめた場所に置いてみたらどうだろうか。砂利に波紋のような模様を描いてみたらどうなるか。すると石庭になるのではないか。もしその石庭が閉ざされた空間の中にあったらどうだろうか。何か別の、もしかしたら世界や宇宙そのものを指し示すことができるのではないか。

こうして石は意味と価値を獲得する。 石を見て、あらゆる社会的なコンテキストの中に置いてみて、価値を見出す行為。 あらゆる芸術、製品、あるいはなんでもあり得るが、一見して価値がわからないものに文脈を与え、ある場所ではこのように活躍し、またある場所では違った価値を発揮するかもしれないという点を指摘して初めて批評と言えるのではないだろうか。

なぜこんなことを考えたのか。 単に粗探し、批判的な態度だけでは、批評という活動が生産的にならないからだ。 もし批評が生産的であるとしたら、それは一体この社会における何を担うのか。 そしてこの結論に至った。

もしこの世界にあるあらゆるものを文化や歴史的分脈の中で価値づけることができれば、それは世界を救うのかもしれない。無価値なものなどなくなるのだから。そうした偉大な取り組みが可能なのもまた、批評の力なのではないか。

期待に応えなくてよい

誰かの期待に応えたいという気持ちはわかるが、応えなくてよいと考えている。 他人の期待は自分で制御できないし、明確でもない。期待に応えられたかどうかなんてわからない。仮に期待が明確になっていたとしたら、それは期待ではなく要求だと思う。

他者の期待を「期待値」という呼び方をすることがある。 売り込みなどで「期待値」をうまい具合に上げて、商談に結びつけたりする。 しかし「期待値」を上げすぎると、それの達成が困難になる。もし期待に応えられなかった時、評価を下げることになるかもしれない。

期待値という言葉は曖昧である。 顧客に期待があり、期待値があり、それを慮って仕事するということはつまるところは忖度そのものではないのだろうか。顧客の側も期待というものを使うことで明文化していないけどわかるよね?という曖昧な要求の仕方で仕事ができてしまう。この仕事のやり方は大変よろしくないと思っている。

やって欲しいことは期待ではなく、明確に要求するべきである。期待値コントロールは期待をかけられる側ではなく、期待をかける側がするべきなのだ。それをかけられる側が必死になって制御しようとするから忖度仕事が生まれる。

期待を気にしすぎると、曖昧な基準で仕事をすることになる。 存在しない偶像、妄想、そういったものに心を絡め取られてしまう。 精神的に健康に良くない。

本当に期待していることは明確な要求になるので、それを達成すればよい。 期待に応えようとしなくてよい。 もし期待以上の仕事をしたければ、仕事を始める前に要求の真の狙いを掴むことだ。本質的な課題解決をすれば自ずと期待以上の仕事になると思う。