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過去記事置き場

偉大なるロボットポルノ『パシフィック・リム』

映画を語るのは常に難しい。
なぜなら、映画は映像と音響で成立していて、言葉で語れないものを表現する媒体だからだ。
それを再び言葉にすることは至難の技であり、安直な言葉で言い表すことほど映画を汚す行為もないだろう。

とは言うものの『パシフィック・リム』は映画だろうか?
僕たちの知っている映画とは、『インデペンデンス・デイ』とか『トランスフォーマー』みたいなはっきりしたストーリーとキャラクター、勧善懲悪のスペクタクルでは無かったのか。
ハリウッドの基準に照らせば、ほとんどストーリーと言えるほどのものがなく、ただひたすら巨大ロボットと怪獣がどつきあいし続けるこの作品は映画なのだろうか?

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説明という苦難

説明すること自体が野暮である。

と、自分は考えているらしい。
昔から自分自身の感じていること、思っていることを人に伝えるのが苦手だった。
見て分かることをわざわざ説明したくないし、見てわからなかったら多分説明してもわからないだろう、などと固く信じているところがあって、おそらくこの考えは間違っているのだけれど、もうすでに長い年月に渡って染み付いてしまった習慣ゆえに変えられずに居る。

今になって困っている。
たとえば映画を観たとしよう。それが素晴らしかったとしよう。けれど伝えることができない。私には伝えるだけの熱意がない。いや、伝えることはできるけど、言葉で説明しようとした途端にとてつもなく醒めてしまう。

解剖みたいなものだ。
生きている動物を解剖すれば大抵は死ぬだろう。
フランケンシュタインでも無い限り生命を戻すことはできない。

説明しているうちに、内側から燃え上がる炎が急速に萎んでいくのがわかる。
そんなのは嫌だ。
言葉にして死人になるくらいなら、何も言葉にできずとも、生きていたいと思うじゃないか。

私は説明すると死ぬ呪いにでも掛かっているのかもしれない。
とはいうものの、全ての説明が不可能なわけではなく、例えばビジネス的な説明は訥々とではあるけれど死なずに説明できる。
いや、初めからこれらは情熱など欠片もないのだ。ただただ、計算と理性だけでできる。

問題は、感情と感覚の関わる部分に於いてである。

好きなことがある。それはなぜ?
わからないし、わかっていても言葉にしたくない。
言葉にしたら、きっと夢から醒めてしまう。
けれど言葉にしなければ、いつか忘れてしまうのだろう。

説明することができない。
この問題を解決するには物語の力が必要なのだろうと思う。
しかし、それを自由に操ることができずにいる。

だから今は、説明なんて野暮だということになっている。

時間を創りだすのに必要なこと

時間が足りない。
やりたいことも、やるべきことも遅々として進まない。
スキマ時間はインターネットに吸い尽くされた・・・。

そういうわけだから、大きくナタを振るわなければいけない。
すべてのインターネットにサヨナラを。
なんか、こんな記事を前にも書いた気がするけど、まあいいか。

きっかけは以下の記事だった。

お気に入りの時間節約術は何ですか?


ジェームズ:テレビを見ないこと。食事は(3回でなく)2回にする。ニュースを読まない。ウェブサーフィンをしない。ゴシップに関わらない。これだけで1日に5時間は節約できます。

私はへこたれない~20の会社を興し17の会社を潰した男の仕事術



最近、とくにネットサーフィンの癖がひどかった。スキマというスキマを情報で埋めている感じ。
フィードリーダーGunosySmartNewsはてブホットエントリー、Twitter

全部iPhoneから消した。
自分でも分かっていたのだ、もううんざりしていたことを。

ニュースを読まない、というのはいつの間にか恐ろしいことのように感じていた。
自分が世界から置いて行かれるじゃないか?って。
でも冷静に考えると、とうに置いていかれているし、置いていかれたとして何か問題が有るわけでもなかった。
そもそも自分は大して重要な人間でもないので、それほど頻繁にニュースを読んだところで何かの役に立つわけでもない。余計な情報を知るくらいなら古典を読んだ方がはるかにマシなのだ。
だからニュースを読むことは出来る限り止めるつもり。

ニュース以上に厄介なのはウェブサーフィンだ。
Wikipediaのリンクを辿り始めるといつまでもリンクをグルグル回る状況に陥るのは自分だけではないはずだ。
まるで実験動物みたいじゃないか。リンクをクリック、スクロール。リンクをクリック、スクロール。インターネットは素晴らしいが、止め時が難しい。それに、消費するだけでなく生産もネットで行う身となると切ることができない。逃れることのできない誘惑が目の前をうろついている。
対策としてはブラウザをコマメに消すくらいしか方法がない。

その他のことはすでに実施していることが多かった。
テレビは少ない番組を録画でしか見てない。
ゴシップに関わらない(というか関われない)。
食事も大抵二食しか食べていない。

しかし、これで本当に5時間も確保出来るのだろうか。
すでにテレビ観ることを止めていた自分にはそこまで効果が無い気がする。
でも、ネットの時間を減らせるだけでも大きいかもしれない。
何しろネットは認知能力を使い果たすからね。
余裕のできた認知能力を、生産的なことや、読書に注ぐことが出来れば僕は満足である。

ところで、久しぶりにテーブルの上を片付けたらとても頭がスッキリしたんだ。
情報の取得先を整理することはきっとこれと同じ。頭の中にスペースを作り出すということ。
スペースがあれば、そこに何か新しいことが流れこんでくる。
時間的にも空間的にも、余裕が創造と絡んでいるんじゃないかと常々思っている。

ことの始まりは整理と準備、ただこれに尽きる。

その議論は本当に必要ですか?

議論で決められることと決められないことがあると思う。
全体に関わるルールを決めなければいけない場合、議論が必要なのは間違いない。
しかし、プロダクトを作る場合はどうだろうか。作品の場合は?
議論が向いていないものだってあるはずだ。

個人的な強い想いが推進力になる新しいプロダクトや作品では、議論によって全体の方向を決めることはできない。
決めるられるとしたら、主観的な思い込みに近い意見によるのではないか。

仮に議論があったとしたら、すでに決められた方向をどうやって実現するか、とかだろう。
それは現場レベルの人たちが、手持ちのリソースで目標を達成するために議論するのだ。
合意を得るためではない。
ただ完成させるために、議論するのである。

社会的な物事を決める際には、議論は必要だ。
しかしそれがアートやプロダクトなら要らない。
他と違うことが大事なのだから合意を得る必要はないはずである。

よく言うでしょう。
10人中2人しか賛成しないアイデアにこそ大きなチャンスが眠っているのだと。
議論して合意を得るということは、この10人のうちに多数派を形成させることにほかならない。
しかし10人中8人が理解を示した頃には、そのアイデアが時代遅れになっている可能性は高い。
違うことが大事な場面で、合意を得ることに力を注いでも意味は無いのである。

別に議論が不要だと言いたいわけじゃない。
しかし何にでも議論が必要だと考えると、何も作れなくなる。
作れたとしてもそれは退屈なものになるだろう。

もし面白いものを作りたいと願うなら、個人の中にある意味不明なアイデアに賭けるしかない。
その結果がクソみたいなものでも嘆く必要はない。学べばいいのだ。
他に類のない発明をするエジソンが、電球を完成させるのに何回失敗したか思い出すといい。
モノを生み出すとは、そういうことなのだ。

習慣が続かない

三日坊主とか、そんな生やさしい話ではなく、一回で終わる。
毎日書こうと思っても、翌日には昨日書いたからいいか、とサボる。
そんなことの繰り返しである。

行動分析学の本も読んだし、小さなたった一つの習慣が生活を改善するということを力説する本もいくつか読んだが、実践できていない。なんであれ、あの手の本は実践するのが難しいのだ。
これは意欲とか、意志とかの問題ではない。
自分自身の行動を客観的に把握して、オートマティックに正しい行動に戻せる機構を備えているか、ということだ。
ロケットで言うところのジャイロである。
そしてジャイロを動かすには、予め準備しておく必要があるのだ。

例えばチェックリスト。
しなければいけない行動があったとして、いざ始めるときに何をしようか考えている間にネットサーフィンを始めて時間を浪費してしまうことはないだろうか。僕はあります。というかそれしかない。
こうした事態に陥らないために、チェックリストがある。
始めの一歩、そしてその次の一歩、また一歩と、一度始めたら止めどきがわからなくなるくらいの小さなステップを明示する。
これはいわば矯正装置みたいなもので、本当に習慣化されるとチェックリストすら要らない。
自然とこなせるようになるから。

そういうわけだからチェックリストを簡単に作成できるアプリも買って、適当にチェックリストを作成してみた。
結果はまったく実行されなかった。
まずそもそもチェックリストが適当すぎた。
あれとこれとそれをやります、みたいなチェックリストは何の行動も促しやしない。

足を上げた後、10秒待ちます。待ちましたか?そしたら降ろしましょう。台所まで歩いてください。コップに水を注ぎましょう。飲み干してください。飲み干したコップは洗って元の場所に戻しましょう。部屋に戻ってください。

これくらい細かくしないと駄目だ。
手取り足取り。

行動のリストと言うと、どうしてもその標的となる行動そのものに目を向けがちである。
チェックリストの作成に失敗して感じたのは、行動に入る前の準備段階からルーチンを適用することが大事、ということだ。
準備をするところから、ルールを決めて厳格に行動すること。

ダラダラと過ごしてしまうことも多々有るので、ライフログを取るようにもした。
そうするとやはりネットばっかりやっている。大事なことにはまったく手を出していない。
データにすること。それを視覚化すること。
レコーディングダイエットじゃないけど、問題を見えるようにすると、解決策も自ずと見えてくる。
とはいうものの、ネットの切断なんてできない。どうしたらいいんだろうね、まったく。

問題は続く。

感動を覚えたのなら、言葉にして残そう

感動とは何か。
それは心の振れ幅が、たまたま大きく振れた、ということだと思う。
時が経てば感動は薄れていくし、感動を与えた何かに再び接触しても、同じ感動は味わえない。

それをもって人は「賢くなった」と言うこともできる。
後から見れば「なんだこんなことか」と思えてしまうだろう。
白けることだって、あるかもしれない。

それでも、そのとき、心が大きく震えたことは事実なのだ。
そして、その大きく震えた瞬間にしかカタチにできない表現というものがある。

いつか感動を与えた何かの価値は下がるだろう。
けれど、その心を大きく震わせた状態の「自分」は、かけがえのない存在ではないか?

であるならば。
感動し、心が震えたのなら、言葉を残そう。
めちゃくちゃでもいいから、何か形に残そうと足掻いてみよう。

感動を覚えたとき、「これは心に仕舞っておこう」などと思ってはいけない。
大抵、忘れる。
私は知っている。

感動から生み出される表現には力がある。
情熱と言っていい。
小さな感動も、大きな感動も、それをどうにかして誰かに伝えたいと思ったとき、自分の表現力の限界に挑むことになる。
自分自身の小さな領地から、外に出るきっかけになる。

人は大人になるにつれて、感動することが減っていく。
世界というものに慣れてしまうから。
それでも、小さなことに関心したり、感動したりすることはあるものだ。
思わず「大したことはない」などと言ってしまいそうになるかもしれない。
そこをこらえて、言葉を綴ってみる。
書いた瞬間はなんとも思わないことも多いだろう。
けれど自分の体から感動が抜けたとき、その言葉にこそ、感動した時の自分を蘇らせる力があることに気付くはずだ。

学習したことを忘れても嘆く必要はない

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)
』という本を読んだ。
この本の中にとても興味深いことが書いてあった。
一度学習したことは、忘れても意味があると。

Aという課題があったとしよう。
その課題Aについて、
  • 一度学習したのち忘れてしまった人
  • 一度も学習したことのない人
が居たとする。

この二人を再度、課題Aに取り組ませるとどうなるか。
当人たちの認識では、二人ともまったく同じ条件として、初めての課題に見えている。
であるならば差が出ることは無いだろう、と予測していた。
ところがいざ実験してみると、すでに学習経験のあった人は一度も学習していない人に比べて、学習効率が高かったのである。

一度学習すると、いわば獣道のような回路が形成されるということだ。
何もないように見えても、道筋は残るのである。

つまり、諸君。
忘れてしまうような学習にも意味があるのだ。
全ての物事を覚えておく必要はない。
強迫的に記憶する必要はない。

だから忘れることを恐れず、日々勉学に励むことこそ重要なのである。
「忘れてしまうから意味がない」なんて、言うもんじゃないよ。